コロナワクチンの接種について、望む人とそうでない人に激しく意見が分かれています。
望む人は、コロナの面倒から一日も早く解放されたくてそれを願っています。
望まない人は、ワクチンの接種により更に多くの面倒が起きる事を心配しています。
この場合もっともいいのは、コロナウイルスが無くなる事です。
そうすれば、どちらも心配の種が無くなります。
だからまずは「コロナが無くなるといいですね」という意志をお互いに確認し合う事が大事です。
ワクチンを望む、または打たずに済む事を望むその前に「コロナが無くなること」をみんなで望む事がまずは大事です。
「そんな事は当然の事だ」と多くの方は言うかもしれません。
その上でこうやってるんだと、多くの方は言うでしょう。
ではその人たちに聞きますが、「コロナが無くなること」を望む意思確認を意見違いの周りの人としましたか?
そういう人たちとは、話もしてないのではないですか?
そうすると今度は、話をしないで何がおかしいと言うと思います。
意見が合わない者とは、話をしても仕方ないだろうと、きっとそう言うでしょう。
でもちょっと待ってください。
そうすると、ワクチンを打つ打たないで問題が起きるのです。
まずは「コロナが無くなるといいですね」から始めないと、民の間に分断が発生するのです。
コロナウイルス感染症は病気です。
病気に罹った人間を労るのは、人間の本来の在り方です。
しかし、コロナ感染症に関しては、労るとは全く真逆の態度を取る人が大勢います。
これは、僕たちの世の中が既に激しく分断されている事の証です。
もし本当に仲良しなら、例え感染症であっても「大丈夫か?」と気遣うはずです。
しかし気遣うどころか、それをただ厄介がるということは、僕たちはそれだけ周りの人を愛さずにきたのです。
その愛の欠如により、一人でコロナに向かわなければならない気にさせられているのです。
この愛の欠如が、人々を自粛や時短警察、マスクをしない人を睨むといった行動に走らせます。
彼らはそれを「みんなのため」という大義で行いますが、愛の欠如した彼らが行うそれは「みんなのため」ではありません。
もし彼らが本当に「みんな」の事を考えるなら、まずは「みんなを愛する」事から始めるべきなのです。
その場合は、みんなの間に分断が起きない事をまず考えるでしょう。
しかし彼らは、彼らの信じる常識に従う人を「みんな」と捉えて行動します。
これは、自分の信じる常識に従う人とそうでない人を差別する考えです。
感染症患者を厄介がる事も、常識として正しいものとしてしまう危険な考えです。
そのような愛の欠如した行動は、決して良い結果をもたらさないことを、まずは全員が揃って認識すべきです。
自分の信じる常識だけが正しいと思っているうちは、本当の平和には届かない事をみんなで知るべきです。
実際、ワクチンを打つ打たないの話も、この常識の争いが基盤になっています。
コロナの面倒から逃れるにはみんなで揃って打つべきだという常識と、不安な材料があるうちは打つべきでないという常識同士が争っています。
政府やマスコミの云うことを信じるべきだという常識と、信じるべきでないという常識も争いの根底にあります。
しかし、両者が共に認める常識もあります。
それは「コロナは無くなった方がいい」という常識です。
まずは、ここから始めませんか?
ワクチンを打つ打たないで言い争う人たちも、今日一日は「コロナが無くなるといいね」と、お互いにそう言って話を締めませんか?
どんな災い事も、みんなが仲良しなら解決するのです。
逆に分断があるところでは、ちょっとした災いがいつまでも厄介事を引き起こします。
もちろん、ここまで分断が進んだ今の日本人が、そう簡単に仲良くなるとはさすがに思いません。
しかし、これ以上分断を進めないための努力は、誰もができるはずです。
「コロナは無くなった方がいい」
まずはお互いがその意思を確認する事で、これ以上の分断にストップがかかる事を心から願っています。
望む人は、コロナの面倒から一日も早く解放されたくてそれを願っています。
望まない人は、ワクチンの接種により更に多くの面倒が起きる事を心配しています。
この場合もっともいいのは、コロナウイルスが無くなる事です。
そうすれば、どちらも心配の種が無くなります。
だからまずは「コロナが無くなるといいですね」という意志をお互いに確認し合う事が大事です。
ワクチンを望む、または打たずに済む事を望むその前に「コロナが無くなること」をみんなで望む事がまずは大事です。
「そんな事は当然の事だ」と多くの方は言うかもしれません。
その上でこうやってるんだと、多くの方は言うでしょう。
ではその人たちに聞きますが、「コロナが無くなること」を望む意思確認を意見違いの周りの人としましたか?
そういう人たちとは、話もしてないのではないですか?
そうすると今度は、話をしないで何がおかしいと言うと思います。
意見が合わない者とは、話をしても仕方ないだろうと、きっとそう言うでしょう。
でもちょっと待ってください。
そうすると、ワクチンを打つ打たないで問題が起きるのです。
まずは「コロナが無くなるといいですね」から始めないと、民の間に分断が発生するのです。
コロナウイルス感染症は病気です。
病気に罹った人間を労るのは、人間の本来の在り方です。
しかし、コロナ感染症に関しては、労るとは全く真逆の態度を取る人が大勢います。
これは、僕たちの世の中が既に激しく分断されている事の証です。
もし本当に仲良しなら、例え感染症であっても「大丈夫か?」と気遣うはずです。
しかし気遣うどころか、それをただ厄介がるということは、僕たちはそれだけ周りの人を愛さずにきたのです。
その愛の欠如により、一人でコロナに向かわなければならない気にさせられているのです。
この愛の欠如が、人々を自粛や時短警察、マスクをしない人を睨むといった行動に走らせます。
彼らはそれを「みんなのため」という大義で行いますが、愛の欠如した彼らが行うそれは「みんなのため」ではありません。
もし彼らが本当に「みんな」の事を考えるなら、まずは「みんなを愛する」事から始めるべきなのです。
その場合は、みんなの間に分断が起きない事をまず考えるでしょう。
しかし彼らは、彼らの信じる常識に従う人を「みんな」と捉えて行動します。
これは、自分の信じる常識に従う人とそうでない人を差別する考えです。
感染症患者を厄介がる事も、常識として正しいものとしてしまう危険な考えです。
そのような愛の欠如した行動は、決して良い結果をもたらさないことを、まずは全員が揃って認識すべきです。
自分の信じる常識だけが正しいと思っているうちは、本当の平和には届かない事をみんなで知るべきです。
実際、ワクチンを打つ打たないの話も、この常識の争いが基盤になっています。
コロナの面倒から逃れるにはみんなで揃って打つべきだという常識と、不安な材料があるうちは打つべきでないという常識同士が争っています。
政府やマスコミの云うことを信じるべきだという常識と、信じるべきでないという常識も争いの根底にあります。
しかし、両者が共に認める常識もあります。
それは「コロナは無くなった方がいい」という常識です。
まずは、ここから始めませんか?
ワクチンを打つ打たないで言い争う人たちも、今日一日は「コロナが無くなるといいね」と、お互いにそう言って話を締めませんか?
どんな災い事も、みんなが仲良しなら解決するのです。
逆に分断があるところでは、ちょっとした災いがいつまでも厄介事を引き起こします。
もちろん、ここまで分断が進んだ今の日本人が、そう簡単に仲良くなるとはさすがに思いません。
しかし、これ以上分断を進めないための努力は、誰もができるはずです。
「コロナは無くなった方がいい」
まずはお互いがその意思を確認する事で、これ以上の分断にストップがかかる事を心から願っています。
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by tenpapa2013
| 2021-02-05 15:55